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2026年2月15日 礼拝
説教概要
主を前面に
小泉美早子師
マタイによる福音書6章1ー4節
マタイ6章1〜4節は「義」の本質と、その動機を問い直すメッセージです。5章では、天の御国にあずかる幸いを与えられた者の生き方として、「地の塩、世の光」となる義の内容が示されましたが、6章ではその義をどのような心で行うのかが問われます。イエス様は、人に見せるための善行を戒め、信仰とは人生の基準が「人の評価」から「神のまなざし」へと移ることであると教えられます。
当時重んじられていた施し、祈り、断食といった宗教行為自体は善いものですが、その動機に「人にほめられたい」という思いが入り込むと、本来の喜びを失ってしまいます。私たちは善行を誇らなくても、心のどこかで評価や感謝を期待し、それが得られないと失望します。その姿にも、同じ根が潜んでいないかと、私たちの心に問いかけられます。この恵みを知るとき、人の目に縛られる生き方から解放されます。
イエス様が求めておられるのは、善行を控え目にすること自体ではなく、「誰からの報いを求めて生きるのか」という姿勢です。人からの誉れを報いとして受け取るのか、それとも隠れたところを見ておられる神様からの報いを求めるのか。神様からの報いとは、現世的成功ではなく、十字架と復活によって罪赦され、神の子として共に生きる恵みそのものです。
この恵みを知るとき、人の目を気にする偽善から解放されます。その自由を与えるのは努力ではなく、内に住まわれる聖霊の働きです。聖霊は今も私たちの動機を照らし、清め、神の前に立たせてくださいます。こうして隠れた信仰を生きる者は、やがて主を前面に押し出し、世へと遣わされていきます。「良い知らせを伝える人々の足」は、神の前にひざまずき、人の目から自由にされた足なのです。
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