2026年3月8日 礼拝
説教概要
再びおそれと不安に吞み込まれないために
小泉智師
ガラテヤ人への手紙4章8-11節
パウロは奴隷と神の子の対比を通して、ガラテヤの信徒たちのかつての姿を思い起こさせます。彼らは神々に仕える生活を送っていましたが、それは放縦ではありません。むしろ真面目で宗教的な生き方でした。しかしその根底には、これだけのことをしなければ不幸になるのではないかという強い不安がありました。
奴隷状態とは不安に縛られて生きる姿なのです。キリストによって神の子とされた後も、彼らはなお安心できず、日や月や季節や年を守り、信仰に多くの規則を付け加えていきました。これはイエス様への信仰を捨ててしまったかのように映るかもしれません。しかし問題はそんなに単純ではないのです。
彼らはもっと信仰的になりたいと、次々何かを付け足していったのです。そうでないと安心できない。それは自分で安心を作ろうともがいている姿です。ところが平安を得られず疲れてしまう。不安を背負いきれず何かを責めたくなる。なぜ教会にいるのにしんどくなってしまうのか。この疑問に重なる状況がガラテヤ教会にはありました。
私たちが教会を支えるのではない。神が教会を支える宣言に他ならないからです。そんなことをしなくても神に知られている。これが福音です。神が私たちを握ろうとしておられます。神が下さる平安を受け取ればいいのです。
パウロは怒鳴っているのではありません。呆れているのです。悲しんでいるのです。なぜ自由にされたというのに、自分で自分を縛る状態にとどまろうとするのですかと。それではますます自分で自分を不安に追い込んでいくだけなのに。そこから解き放たれる道はただひとつです。自分がどういう状態になろうと神に知られている恵みの事実の中に安心を見出すことからです。