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2025年11月16日 礼拝

説教概要

信仰が現れた以上

小泉智師

ガラテヤ人への手紙3章23ー25節

信仰が現れたとパウロは告げます。私たちは自分の信仰が立派か立派でないかを気にします。間違った発想です。自分の状態とは一切関係ありません。信仰とは現れるものですから。キリストが与える贈り物なのです。下さるのなら自分の状態に関係なく感謝して頂きましょう。

 

信仰が現れるとはキリストとの出会いを意味します。この出会いによって以前の価値観に生きる必要がなくなりました。パウロの言葉では律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていた生活です。

 

当時は子女の養育係が存在しました。律法も養育係が鞭を振るうように、細かい規則やルールで縛り行動を監視します。私たちも人の行動を自分のものさしで批判するのです。もちろん、ユダヤ人ではない我々は律法を知りませんでした。ただ自分で規則やルールを作って、自分やひとを縛る傾向は同じです。

 

信仰が現れたので、規則で自分や相手を縛る必要がありません。割礼派の人を意識した発言です。彼ら曰く、キリストを信じなさい。しかし救いにはそれでは不十分だ。戒めにある割礼や食のタブーも守り、ユダヤ人のようになりなさい。

 

規則やルールで縛られる生き方を信仰の世界に持ち込むのはやめましょう。私たちは信仰を頂いた後も、自分でルールを持ち込み苦しんだり苦しませたりします。それがどれだけ敬虔な顔でもっともらしく近づいても耳を貸してはなりません。パウロが戦ったようにこういう価値観とは決別するのです。

 

キリストと出会う前はそういう意識で生きたとしても仕方がありません。しかし救いの恵みを知った今、逆戻りは出来ません。キリストとの出会いで、養育係の役目は終わりました。この恵みにとどまりましょう

​前回の説教概要

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