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2025年10月5日 礼拝
説教概要
誰かの希望になる光
小泉美早子師
マタイによる福音書5章13ー16節
イエス様は山上の説教で、「あなたがたは地の塩、世界の光である」と語られました。これは単なる道徳的なたとえや人間的努力の勧めではなく、聖霊に満たされた者に与えられる新しい独自性です。聖霊によって生かされるとき、私たちは塩としてこの世に命の味を与え、光として神の栄光を輝かせる者とされます。
塩は目に見えにくくても料理全体を変えるように、聖霊に満たされる私たちは、祈りや言葉や小さな行いを通して、周囲を守り、命を育みます。光は暗闇にあるときにこそ意味を持ちます。私たちが困難や逆境の中に置かれるとき、聖霊が私たちを燃やし、キリストの光を輝かせてくださいます。
しかし、イエス様は「塩が塩気を失い、光が隠される」ことを警告されました。それは聖霊に満たされる歩みを忘れ、自分の力で何とかしようとする時に起こります。そのようなとき、私たちの信仰も教会も、世の人々に影響を与えられなくなってしまうのです。だからこそ私たちは、日々聖霊に満たされることを求め続ける必要があります。
聖霊は、私たちを人知を超えた仕方で塩と光として用いてくださいます。塩は隠れたところで働き、光は誰かの足もとを照らします。同じように、聖霊は私たちの小さな証や祈りを通して、知らないうちに誰かの心を潤し、人生を導かれます。
光は自分のために輝くのではなく、誰かの希望となるために輝きます。私たちは光そのものではありませんが、キリストの光を映し出す鏡として用いられるのです。家庭で、職場で、地域で、私たちは「誰かの希望になる光」として立てられています。聖霊に導かれるとき、私たちの存在そのものが証となり、人々をイエス様のもとへと導くのです。
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