2025年8月17日 礼拝
説教概要
心の清い者は幸い
小泉美早子師
マタイによる福音書5章8節
イエス様が宣言した「 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」という福音は、単なる道徳的純粋さの賞賛ではなく、神様との出会いを開く恵みの門です。旧約律法は清い動物と汚れた動物を分け、病人や出血を伴う者を隔離し、礼拝前に水で身をすすぐよう命じました。神がご覧になるのは、他者の目に映らない動機や欲望、妬み、偽善までを含む「心」だからです。私たちが心底を覗けば、汚れと罪を否定できません。
では清い心はどう得られるのか。自助努力で不純を排除するのではなく、罪を認め、神の憐れみに全面的に身を委ねる悔い改めが出発点です。部下ウリヤを謀殺し姦淫を犯したダビデが「清い心を私のうちに創り、揺るがぬ霊を新しくしてください」と泣き叫んだ詩篇51篇は、その典型です。人間の手に負えない汚れを、神ご自身が洗い清めてくださる──それを可能にした歴史的出来事こそ、イエス様の十字架と復活です。
ゆえに「心の清い人」とは、生涯自分の汚れを捨て去ろうともがく高潔な人ではなく、十字架の恵みに目を注ぎ続ける謙遜な罪人です。自分ではなく神を見つめるとき、信仰の目はすでに神の臨在を捉えています。今は磨りガラス越しに朧げにしか見えませんが、主の再臨の日には「顔と顔とを合わせて」完全に見るとの希望が与えられています。この終末的展望が地上の礼拝に光を注ぎ、私たちを日々の悔い改めと感謝へと呼び戻します。
どれほど弱く汚れた者も、イエス様に依り頼み「罪人の私を憐れんでください」と祈るなら、神はその人に清い心を授け、「神を見る」幸いを今ここに、そして永遠に実現してくださる――これこそみ言葉が告げるグッドニュースです。
罪人を身代わりに贖った主の十字架と復活は、私たちの罪と汚れを滅ぼし、新しい命と「神を見る」道を開きました。この確かな約束に立ち、主の憐れみを凝視し続ける歩みこそが、心の清い者の人生であり、すでにこの地で味わう祝福なのです。