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2025年7月6日 礼拝

説教概要

​信仰はどこから始まるのか

小泉智師

​ガラテヤ人への手紙3章1節ー2節

愚かなガラテヤ人よとパウロが嘆きます。なぜ道理がわからないのかと指摘するのです。彼らが割礼派の主張を呑み込み、実績主義のメンタリティーに後退してしまったことを問題にします。信仰をもって自由になっても気を付けないと成果主義の発想がついて回ってしまうのです。

 

パウロは彼らが救われた時の体験を思い起こさせます。十字架のキリストがはっきりと目の前に示された。ある種の霊的体験です。十字架にかけられたキリストの幻を集団で見ました。多神教であった彼らが今までの宗教的習慣や儀礼を捨て去ることもよしとするほど、強烈な体験でした。彼らは議論で救われたのではなく、霊的体験を通して救われました。

 

さらに彼らは聖霊を受けたとパウロは言います。おそらくコルネリオの家で起こったような聖霊の圧倒的注ぎがあったのでしょう。そこには異言や、預言、奇跡といった現象も伴ったかもしれません。即ち、カイザリヤで起こった不思議な出来事が遠く離れたガラテヤの地でも起こったことを意味します。

 

ここを踏まえてパウロは尋ねるのです。あなた方が救われ、聖霊を受けたのは、律法を行ったからだろうか。割礼を受けたから聖霊体験をしたのか。食べ物のタブーを守っていたから救われたのか。答えは否です。ただ、恵みの福音の言葉を聞いて信じたはずなのです。

 

人間は物事を複雑に考えすぎる時があります。そんな単純なことでいいのかと疑問を持ってしまうのです。自分で信仰の規則を作り始めてしまうのです。これを守ることで救われるという発想に傾いていく。それはパウロに言わせれば愚かなのです。何度でも救いの原点に立ち戻り、この恵みにとどまりましょう。

​前回の説教概要

©2023 by 岡山神召キリスト教会

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