2025年4月20日 礼拝
説教概要
希望に向かう歩み
小泉智師
ルカによる福音書24章13節ー35節
二人の旅人が出てきます。エルサレムを離れて西へ11キロばかりのエマオの村に向かっている。決して意気揚々とではありません。暗い顔つきとあるのです。彼らの師である主イエスが殺されてしまったからです。しかも亡骸まで消えた。天使が復活を告げたと聞くが信じられない。彼らは同時に三つのものを失いました。愛する方を失いました。生活の基盤を失いました。神に裏切られた感覚で神を見失いました。
一生懸命やってきたことのすべてが無駄になってしまう。自分で死のうと言う気持ちはないけれども、生きるのが辛い。それでも日々とにかく生きていかなくてはいけないのだがなんの望みも期待も持てない。そういう消化試合のような人生を死ぬまで生き続けないといけない。彼らの状況はそういうものでした。あるいは私たちにも重なる心境かもしれません。彼らは話しあい、論じ合いますが、失望を確かめ合うことにしかなりません。
ところがそこに復活の主イエスが近づいて来られます。正体を隠したまま、彼らとともに歩み始めます。主はあからさまに自分は死から復活したのだと明かされません。むしろ彼らの心情に寄り添うようにしながら、彼らの話を聞こうと耳を傾けます。心の中に思いを打ち明けさせてくださる。神が私たちの喪失を受け止めて下さるのです。不思議なことに主と語り合う中で、失望していた彼らの心は燃え立ちはじめるのです。
心が燃えた理由は、主イエス様がみずから聖書の言葉を解き明かして下さったことにあります。人生の陰りがある中で、人はともに歩んで下さる神に気づかないことがあります。失望で目が閉ざされているからです。しかし、その現実を打ち破るようにして復活の主イエスが語り掛けて下さる。聖書の言葉を心に届けて下さる。その時、人は失望へと至る道から向きを引き返すようにして希望への道を歩み始めます。
彼らの目が開かれたのは復活の主とともに食卓を囲んだときでした。パンを裂かれた主の姿におそらく十字架にかかられる前の最後の晩餐の記憶を思い起こしたことでしょう。そのときに彼らは十字架と復活の意味を悟ったことでありましょう。
もっとも心が燃やされる体験とはただの自己満足などではありません。他者のために生きることを可能にするからです。実際、彼らはさっきまでの悲嘆が今来た道を走るように引き返し、エルサレムで失望していた仲間に報告します。主イエスは生きておられると喜んで証言してやみません。伝えざるを得ないのです。希望を語ることを止められないのです。生きる意味と目的はただこの方から与えられるのですから。