2025年4月6日 礼拝
説教概要
わたしには値打ちがある
小泉美早子師
マタイによる福音書4章12節ー17節
人は世の中の空気を敏感に感じながら生きます。イエス様の生きた時代は暗い時代でした。預言者ヨハネが神の言葉をまっすぐ語ったために捕らえられる時代。しかし、主はその悲しいニュースを聞くやいなや、ガリラヤに活動に向かわれます。ガリラヤとはヨハネを捕まえた政治家の本拠地。敵陣のただ中です。それも、生まれ故郷のナザレには二度と戻るまいという覚悟で。神の言葉が打ち消される時代になんという勇気でしょうか。
そもそも信仰とはこういうものなのです。神にかける冒険心と言えばいいのでしょうか。時代が悪いからと逃げ回るのではない。今はまずいと及び腰になるのでもない。それぞれが主に召されて、いのちを燃やすために向かわないといけないガリラヤが目の前に広がっているはずなのです。人がどうこうではない。一般論でもない。神はあなたにナザレを出て、ガリラヤに向かいなさいと呼びかけているのです。
ガリラヤ地方とは預言者イザヤの昔から暗黒の地として有名でした。異邦人のガリラヤ。混血が進んで信仰と迷信が入り混じってしまった土地。見捨てられたかのような地です。しかし、神のあたたかい目はその時代の最も暗いところに注がれているのだとも言えそうです。イエス様は、最も暗い打ちひしがれた人々に光を灯しにいこうと、あえて飛び込んでいかれたのです。
イエス様の働きは今やクリスチャンの手に継承されています。ならば、今の時代のガリラヤに光を届けにいくのは私たちです。クリスチャンのまなざしはイエス様と同じく、わたしの身の回りの最も暗いところに必ず向けられるはずだからです。ならば、わたしには力がないとか、値打ちがないとか言うのはおかしいのかもしれません。誰かに本気で打ち込んでいくなら、私たちのうちにあるキリストの力強さが暗闇に強烈な光を放っていくのです。
それでは光とは何でしょうか。それは顔の向きを変えるようにして、神に顔を上げることです。悔い改めるとはそういうことです。今までは自分の内側ばかりを見つめて、ため息をついたり、苦しんでいた目を高く上げて神に向けなおすことです。なぜなら、心のかたい人のために神が人となって、友になろうとして近づき、あなたを必ず守ると言って下さったのですから。
クリスチャンとは、神に目を向けるようにと神を指し示す人と言えるのかもしれません。今までは自分だけの世界だった。せいぜい、あなたとわたしの世界しか知らなかった。それで自分の力で生きようとするしかなかった。それではどこかで行き詰ってしまうのは無理もありません。この状況を打ち破るには神を指し示すしかない。わたしも神を信じて闇から光へ、死からいのちへ移されたとこの喜びの源に神がいるのだと大声で叫びたくなりませんか。