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2025年2月16日 礼拝

説教概要

実を結ぶ信仰

小泉美早子師

マタイによる福音書3章1節ー12節

バプテスマのヨハネの務めは、イエス様の姿とぴったり重なるかのようです。伝道の第一声が、イエス様の宣教開始の第一声と同じでしたし、田舎者のナザレ人と蔑まれた主と同じ生き方をなぞるかのように、質素な着物を身にまとい、質素な食物を食べています。この世の煌びやかさにはっきりと背を向けるようにして。

 

わたしたちも主を証しするヨハネになれるでしょうか。この世の成功をつかむかのような生き方には目もくれず、主のためにあえてズタボロになり、どん底を味わい、それでも、その血と汗と涙を通して神の声そのものになれる生き方に徹することは出来るのでしょうか。この世で成功しても主に用いられないよりは、この世的にはみじめでも、主に用いられるほうがしあわせだと言い切ることはできるでしょうか。

 

そうなるには何よりも信仰の偽善をなんとかしないといけないようです。パリサイ人やサドカイ人がヨハネに一喝されたのも、その偽善が見透かされたからでしょう。信仰者であるとは名ばかりで、実は自分の力を誇り、自分のみじめさを悟ろうともせず、神にすがろうとしない生き方。

 

そうではありません。水に全身を浸すかのように、情けない自分の丸ごとを神に捧げればいいだけのことです。そうするならば、必ず人生に実を結ぶに違いないのです。

 

神様は、実の残る信仰に生きるように願っておられます。神に従い、神に用いられたいと願う者にはすばらしい世界が用意されていることでしょう。人のことなど構っておれません。せっかく救われたわたしは神に用いられたいと願っているだろうか。それが人生の喜びだろうか。それとも意識が自分にむいているだろうかをそれぞれが改めて問い直してみることにしましょうか。主に用いられ、実が残る人生こそ主が願われることなのですから。

​前回の説教概要

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