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2026年1月1日 礼拝
説教概要
良いことの知らせを伝える人々の足として
小泉智師
ローマ人への手紙10章14ー17節
新しい年の始まりを、新鮮な驚きをもって迎えます。パウロも驚いています。「どうして」という疑問文を重ねながら、神がすでに起こしてくださったみわざへの驚きから始めます。呼び求めることも、信じることも、聞くことも、すべては神が始めてくださいました。丁寧に読むと命令文は一つもありません。「行け」「せよ」という叱咤激励の声ではないのです。
むしろ強調されるのは人間の側の「できなさ」です。神が働かれなければ、人は何もできないとの告白。しかしその神が、福音が届くための道筋を用意周到に備えて下さっていた。実際、その結果、福音は私たちのもとにまで届いたではありませんか。
もちろん、「行くな」「するな」という禁止の命令もありません。神のための行動は尊いのは間違いありません。ただし、宣べ伝えることは神に遣わされてこそ起こります。神が遣わしたわけでもない行動もあり得るのです。神のための熱心であっても、それが自分の欲求を満たすためなら、神の義に従ったとは言えないとパウロが語る通りに。
そう考えると良い知らせを伝える者の足が美しいのも、成果によらないと気づかされます。神が弱い人間を用いて、福音を思いもよらないところへ届けてくださった恵みがあとになってわかってくることへの感謝です。
そうは言っても、やがて私たちは動けなくなる時がきます。しかし自分を責める必要はありません。過去の行動だけが信仰の根拠なら、動けなくなった時を支える信仰の言葉は見つからない。ただ最後まで残る恵みは、福音を聞き続けること。そのうえで主が遣わすと言う声を聴いたならおそれないで答えたい。主の声に耳を傾けるところから、この年も始まります。
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