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2024年9月29日 礼拝

説教概要

最後の問い

小泉 智師

テモテの手紙第一6章6節ー10節

利得を得ようとする間違った信仰をパウロは警告するのです。それを糺そうと誰にも訪れる人生の終わりを見つめています。死について考えさせるのです。何を得ようと世を去る時は何も持っていくことができない。厳然たる事実です。最後に残るのは生まれた時の裸の自分です。終わりを迎える時にあなたは何を持っていますかとは主なる神は決してお問いにはなられません。

 

最後に尋ねられる質問は、あなたは神とともにどのように生きて来たかです。人とともにどうやって生きてきたか。残るのはそれだけです。お答えする責任が私たちにはあります。与何を得てきたかではなく何を捧げてきたか。衣食さえあればそれでいいと言い切るすがすがしさがここにはあります。

 

神に満ち足りている。これが私たちが得ているものです。人をうらやまない。すねない。ところが金持ちになりたいなら、欲望の虜です。飽くなき要求はとどまることを知りません。ところが金銭で人の心は満たせません。それは破滅に至る道だと気づく必要があるのです。

 

それは悪の根だとさえパウロは言います。悪い例はいくらでもあるのです。利得の道に走って、信仰から迷い出てしまう。福音とは異なる価値観に流され、神から離れてしまう。その結果、自分で自分を刺し通したと言わないといけないほど、痛い目にあった人がいたのです。他人事とは思えません。

 

本当に得ないといけないものは永遠のいのちです。救いと言ってもいいでしょう。もちろん、救いはすでに頂いています。しかし、救われた意味を考え、その目的に沿って最後まで召された道に歩む必要があります。最後の問いに対する答えは神と人を愛した人生でしたと言える生き方でありますように。

​前回の説教概要

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