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2022年9月4日礼拝会

説教概要

私からあなたへ手渡される福音

内川節子伝道師

​ヨハネの福音書 7章37節~39節

 主イエスは、ヨハネ7:1を最後に、伝道の場をガリラヤからエルサレムに移された。それは、十字架への道の第一歩であった。
 時は仮庵の祭りの4日目であった。「仮庵の祭り」とは簡単に言うと、イスラエル民族の40年間の荒野の旅の追体験である。テント暮らしの7日間を通して荒野での神の恵みを思い返し、感謝する。同時に収穫祭もかねて刈り入れを喜び楽しむものであった。

 主イエスは、人々の思惑や噂の渦巻く中、神殿に座り人々に教えられた。
 聖書を読むと、イエスの兄弟たち(正確には弟たち)も、この世的な成功を勧めている。(7:2~5)彼らが主を信じるには復活を待たねばならなかった。
 また、彼らだけでなく、多くの人々もその考えは種々様々であった。「良い人だ。」と言う者あり、「人々を惑わす者だ。」とか、「あの預言者なのだ。」と言う者もいた。
 特に、当時のユダヤの権力者にとっては、民衆の人気の高いイエスを捕えたいと思いながらも、手を付ける状態ではなく、虎視眈々と時を待っていた。

 祭りの終わりの大いなる日にイエスは立って言われた。「誰でも渇いている者は、わたしのもとに来て飲みなさい。」(7:37)
 この言葉には重要な意味がある。当時、この祭りの大切な祭事として、毎日シロアムの池から水をくみ、金の器で運ばれる水を祭壇に注いでいた。神の恵みが神殿に固定化されている状態であった。
 主は続けて言われる。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる。」(7:38)

 神の恵みは教会に閉じ込められるものではない。一人一人の中から流れ出すものだ。「心の奥底」とは直訳すると「腹から」「胎から」となる。
 私たちの「胎」すなわち、根源から湧き出る枯れない水脈を日毎に神から頂こう。自分だけの満足ではなく、他者をも潤す神の水の流れを発する者となろう。

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