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2025年8月24日 礼拝
説教概要
祝福を受けるのは誰なのか
小泉智師
ガラテヤ書3章10節ー14節
呪いという言葉が何度も出てきます。律法の呪いとあるように神の戒めに従わない者はすべて呪いの下に置かれると旧約聖書にあります。律法はそれくらい現実的な効力を発揮します。これが罪の呪いであって、決して軽々しく扱えるものではありません。
律法の行いによっては誰も神の前に義とされる者はいないのも確かです。律法の戒めに従おうともがくほど、約束を破る選択を選んでしまう。その結果、どうしても律法の呪いの下に閉じ込められてしまいます。律法の戒め自体が私たちを糾弾します。どうすればいいのでしょうか。解決はどこにもないのでしょうか。
しかし、パウロはキリストが律法の呪いをすべて引き受けられたと告白します。申命記の引用が強調するのはイエス様が十字架におかかりになられた時に、私たちが受けるはずの呪いのすべてを背負って下さった点です。キリストを信じる者に与えられるのは呪いではなく祝福なのです。
たとえ悪魔がお前の人生は呪われていると語り掛けたとしても耳を貸す必要はないのです。なぜならわたしたちには罪の呪いはまったくやってこないからです。わたしに与えられているのはキリストを信じることに伴う祝福なのだという約束に立ちましょう。罪の呪いから解き放つためにイエス様が十字架で成し遂げて下さったことを信じましょう。
迷いやすい時代です。なにかよくないことが起こった時に何かの呪いではないかと心配になることがあるかもしれません。しかし、私たちには神の御霊を受ける約束が与えられていることを感謝しましょう。聖霊が律法の要求を満たします。聖霊が救われた私たちをさらにキリストに似た者へと造り変えて下さるのです。
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