2025年8月3日 礼拝
説教概要
憐れみ深い者は幸い
小泉美早子師
マタイによる福音書5章7節
「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける」日本の諺「情けは人のためならず」と似ていますが、イエス様が語る「憐れみ」は、単なる親切や利他的行為を超え、神の愛と赦しに基づいた深い恵みの行為です。
マタイ25章にある「最も小さい者への行為」、ルカ10章の「善いサマリア人」のたとえなどを通して、憐れみは単なる感情や同情ではなく、実際に飢えた人に食事を与え、病人や囚人を訪ねるような、具体的で犠牲を伴う行動であることが示されます。しかも、それは自分の敵や、自分を裏切ったような人に対しても求められるのです。
このような憐れみは、人間的な努力では不可能です。だからこそ主は私たちに聖霊を与え、私たちの中にキリストの心を形づくり、敵をも愛する力をくださるのです。憐れみ深くあることは、霊的な戦いの中に立つことでもあります。悪魔は分断と裁きをもたらしますが、赦しと憐れみは神の国を打ち立てる力なのです。
イエス様は、私たちの赦しを求める前に、ご自身が私たちの罪を十字架で贖い、天文学的な負債を帳消しにしてくださいました。マタイ18章の「仲間を赦さない家来」のたとえのように、私たちは神から一万タラントの赦しを受けている者として、他者の百デナリの負債を赦すように招かれているのです。
イエス様の「幸い」の教えは、「こうすれば救われる」という条件ではなく、「あなたがたはすでに神の憐れみによって救われている」という宣言に基づいています。その神の憐れみを受けた者が、自らも憐れみ深く生きようとするときに、聖霊が力を与えてくださるのです。主が私たちを憐れみ深い者へと作り変え、世に神の愛を証しする器として用いてくださる。そのことこそ、真の幸いなのです。