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2024年7月28日 礼拝
説教概要
破れ口で
小泉 美早子師
詩編106篇
主をほめたたえよとこの詩編は賛美します。しかし、主の恵みとは裏腹に、ここにあるのは神の民の罪です。忘却、待てない不信、欲望、偶像崇拝。これでもかというほどに人間の愚かさが重ねられていく。こういう醜さが現れたところで、なおも主は恵み深いと言えるのです。自分の罪深さを知らされたことで、かえって身に染みる恵みがある。
しかし、勘違いしてはいけない。主の恵みとは、何もかもなあなあで済ませる甘さとは全く違うのです。主は罪に怒りを覚える方。主が怒るのですからその怒りはどこまでも正しいはずです。主の怒りが臨もうとしている。主の正しさはいつも人の罪と敵対する。もしも、滅びが食い止められたとしたなら、モーセやピネハスのからだを張ってのとりなしの祈りがあったためです。
もしも、現代社会に問題があるとするならば、それは慣れてしまうことかもしれません。罪や悪にも、無感覚になってしまう。それが破滅に向かう兆しでないとは誰が言えるでしょうか。誰かが気づいたならば、危機感をもって祈りはじめたいのです。
これでもか、これでもかという罪の歩みをまざまざと知らされると、正直うんざりします。どこにも救いはないようにさえ映る。だからこそ驚きなのです。主は彼らの叫びを聞かれ、悩みを顧みられたことが。本来その悩みは自業自得でした。しかし主はなんとかしてあげずにはおれないと身を乗り出されます。その契約のゆえにです。そのあわれみといくつしみのゆえにです。
この方に叫ぶのです。罪に苦しめば苦しむほど。主はあなたとの契約のゆえにあなたに対してつねに真実でいらっしゃいます。必ず助けがあるとどこまでも信じていい。それはあなただけではない。すべての民がアーメンと唱えるその時がくるまで。
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