2023年7月23日 礼拝
説教概要
罪びとのかしら
小泉 智牧師
テモテの手紙第一1章15~17節
罪びとを救うためにこの世にこられた主イエス。説教者パウロはこの言葉を何度も語り聞かせる立場です。自分に無関係の話として語ってはいません。自分こそ罪びとの頭だ。その自覚が終生彼をとらえて離しません。過去形ではなく現在形で綴られていますから。
信仰の成長によってかえって罪の自覚が生じます。自分も悪いがあの人よりはましだと比較している限りは、成長途上です。むしろ、神の救いの恵みに圧倒されるほど、ほかの人の罪などどうでもよくなる。なぜ神はこんな罪深い自分を救い、用いたもうのか。感謝の念に圧倒されるのです。
そういうパウロは見本である自覚があります。神の憐れみ深さと寛容さは彼の救いと救われた後の生活から一目瞭然だからです。これから主イエスを信じたい方への励ましなのです。立派だから救われるのではない。どんな罪びとでも神は救うことができる前例としていくらでも証言できるからです。
私たちも見本です。非の打ちどころのない模範的な信仰者たれと求められてはいません。失敗だらけの中で神の憐みと寛容について、自分の言葉で語れる者は、誰でも見本です。前例がある以上、そこに続く者の救いを起こすからです。
罪人の頭とは、主イエスの救いなしには生きられない者との告白です。その恵みとあわれみを思う時、神の素晴らしさを賛美するほかないのです。苦境と目の前の重苦しさが現実にはあります。しかしテモテにエペソ教会を託したのは憐れみ豊かに行動される神なのです。
ならば教会が困難に直面しようと心配することはない。ありえないほどの憐みを注ぐ主が教会の主です。この方が私たちに託された務めを全うさせて下さいます。福音に忠実である限り、力をもって強めて下さいます。それなら、心込めてこの方を賛美するのです。