2024年7月21日 礼拝
説教概要
賜物を生かすには
小泉 智師
ルカによる福音書10章17節ー22節
やっていて苦にならないこと。それがあなたの賜物ですという理解は間違っていません。同時に出来ないと怯んでいたことができるようになる。それが賜物になる場合もあります。主から伝道に派遣された70人がそうです。悪霊を追い出せたのです。やってみたらできたのです。悪霊追い出しはユダヤ教のエルサレム神殿の権威筋にしか認められていません。それなのに無名の何者でもない素人がイエスの名で祈ると悪霊でさえ従うと言うのです。
成功体験です。いい意味での自信が生まれます。できないと決めつけてはいけません。主の権威がそこに働くなら、無理だと思い込んでいたことでも可能になる。しかも主イエスは弟子たちの知らないことでさえ霊の目で見ておられます。サタンが稲妻のように天から落ちる。何度も落ちてくるという言葉です。弟子たちの福音宣教は強大な悪魔の国を切り崩し始めている。それくらい大きいことが起こっているというのです。
問題はできたことに夢中になってしまうことです。夢中になりすぎてかえって見えなくなるものがあるからです。だから主イエスはもっと深い喜びに目を向けさせます。天に名が記されている喜び。救われていることそのものへの感謝です。ありそうな気がします。好きな奉仕に熱を入れ過ぎて、救いの喜びがどこかにいってしまう。罪びとであった者が神の子とされた救いの原点を忘れがちになり自分を一角の者であるかのように誤解するのです。
この70人は幼子のような小さい存在です。当時の宗教家のごとき賢い者でも知恵ある者でもありません。両者の違いはどこにあるのでしょう。後者は計画性や綿密な立案のもとに信仰を考えます。しかし幼子は先のことを予測できません。その場その場の思いつきで動きます。予測不可能なのです。しかし、なぜか主はそういう宣教を用いられるのです。それは愚かなことではなく主イエスが聖霊に溢れるほど喜びとするところなのです。
ただ彼らは主イエスが何者かをすべて理解していません。この先の十字架の受難も知りません。知識は部分的です。強い憧れがかえって相手への誤解を生みます。同時に父なる神が何者かもイエス様以外にはわからないのです。たとえ権威ある宗教家がしたり顔で神を論じようが彼らも本当は知らないのです。ところが主イエスは父が何者であるかを幼子のような者たちに知らせるのです。彼らこそが主がこれはと心に定めた人だからです。
小さい者に過ぎない私たち。確たる計画性を立てるのが難しい。はじめから無理だとしり込みする。一点に夢中で全体が見えない時もある。主イエスを理解できているとも限らない。ところが、主はそういう名もなき者を用いて、宣教をお進めになられます。これからも宣教は続いていくのです。この道にどこまでも従っていくなら、やがてわかります。神がどういうお方であるかも。その時は今以上の喜びで神をほめたたえたいのです。