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2025年7月20日 礼拝
説教概要
聖霊によってはじめられたわざ
小泉智師
ガラテヤ書3章3節ー5節
ガラテヤ教会は御霊によって始まったとパウロは告げます。どんな教会も聖霊によって始まるのです。そのまま聖霊に導かれて進むならなんの問題もありません。ところがガラテヤ教会は肉によって完成しようとしています。即ち、自分の成果や出来栄えを気にして、行いを気にし始めたと言うのです。
ガラテヤ教会は信仰に導かれるときにあれほどのことを体験しているのにです。集団で十字架のキリストの幻を見る霊的体験を通して劇的な回心を遂げました。更に聖霊が注がれ、聖霊体験としか言いようのない恵みに預かったことを指します。何らかの奇跡も伴いました。聖霊がそこまでしてこの福音の確かさを証されました。
それなのに再び行いを強調し出すなら、あれほどまでの体験も無駄になります。行いを中心においてしまうなら、達成できないことに自責の念を感じるか、自分の行いを自慢するかのどちらかの罠に陥ってしまうしかありません。
私たちは実績で自分の存在価値をはかろうとする考えと決別しないといけません。見つめるのは自分ではありません。主キリストイエスが十字架と復活によって成し遂げて下さったことだけに集中します。キリストがご自分のいのちを投げ出すまでに愛しぬいて下さった。私たちの存在価値はそこにしかありません。もしも私たちが自分に何が出来るかや何が出来ないかだけを気にしているなら、それは間違いです。
私たちは信仰に導かれた時に、すでに恵みによる福音を聞いて、それに答えたはずです。私たちはこれからも福音の言葉に聞き続け、キリストの霊的な現実の中へと引き入れられ、福音の祝福をあますことなく自分のものとすることができますように。
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