2022年7月17日礼拝会

説教概要

​神の嫉妬

長谷川忠幸牧師(境港キリスト教会)

民数記 5章11~31節

 民数記の中で、聖所の敷地内にある「塵」を入れた「水」について教える掟(おきて)が二つある。一つは、民数記5章の嫉妬のトーラーで、もう一つが民数記19章の赤毛の雌牛を焼いた灰を混ぜた清めの水に関する掟である。

 

 19章の掟は、死体に触れて穢(けが)れを負った者を清めるための掟である。それに対して5章の嫉妬のトーラーは、姦淫の掟を行った者の罪を暴くための掟である。
 

 両者は、明らかな対応関係にある。どちらの水にも、神の臨在が満ちる聖所の塵が入っている。故に、それは聖なる水なのである。聖なる水は、穢れを清めると同時に、清めるべき穢れを明らかにするのである。裏を返せば、清めるべき穢れが明らかになるときに、本当の清めが実現するのである。
 聖なる神がイスラエルの宿営のただ中におられるということは、同時に、イスラエルの内側に潜んでいる穢れが明らかになるのである。そして、その穢れに対する呪いが実現する時に初めて、イスラエルは何が穢れで、何が聖なるものなのかを知るのである。
 

 主イエスが私たちと共におられる時、私たちのうちに潜む穢れが明らかになる。それは、主イエスのように敵でさえも愛することを拒む罪の穢れである。
 聖霊の満たしの中で、私たちは自身の罪を深く知るとき、主イエスの愛と恵みを知り、本当の聖なる生活に生きることが出来るのである。今日も、真の聖なる生活に生きるべく、新しい信仰を祈り求めよう。