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2023年6月11日 礼拝
説教概要
福音の教えに招かれて
小泉 智牧師
テモテ第一の手紙1章6~7編
教会にまなざしを向ける時、理想論ではすみません。社会に存在する教会とは生身の生々しい人の集まる場なのですから。混乱の中にあるエペソ教会。原因は律法の教師になりたがる人がいることです。もちろん、献身者や奉仕者が起こされるのは素晴らしいことです。
混乱は彼らが自分たちを特別な人間だと自認するからです。特別に頭がよく、霊的で、議論に優れている。実際は教会に特別な人などいないのです。自分は特別に不幸だと言うのも同じことです。誰かが特別視されだしたとたん、別の誰かが排除されます。違う誰かが冷たく見下され、踏みにじられます。
私たちは自分が特別な存在だという誘惑と戦う必要があるのです。自己理解の前提が間違っていますから、聖書も捻じ曲げられます。律法を適当に引用しようが、曲げようが、自己主張のために我田引水しようがお構いなしです。
教師は現代では牧師に相当します。だからといって私たちにも関係のない話ではありません。どういう人生を歩もうが、私たちもどこかで誰かを教える立場に立つからです。親が子に。上司が部下に。上の世代から下の世代に。いや上の世代が若い世代から教えられることもあるご時世です。福音を伝えるにも教える要素が伴う。
だからこそ弁えるのです。自分は特別でもなんでもないと。凡人でいい。失敗だらけでもいい。ただひとり特別な存在であるキリストを証する者でありたいのです。それでも教える立場に立つことがゆるされるとするなら、学ぶことにおいてのみです。キリストから学ぶのです。み言葉から学ぶのです。教会に招かれた誰もがキリストから生き方を学ぼうと望むところ、教会は必ず成熟し、前進します。
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