top of page

2024年6月30日 礼拝

説教概要

神の言葉のために

小泉 智師

​テモテへの手紙第一5章17節ー18節

パウロは長老に目を向けるのです。教会で指導の任に当たる人です。自分の思うところを好き勝手に語るのではありません。みことばと教えのために骨おることだと言われているのです。現代で言う牧師の働きです。礼拝で聖書からの説教が重んじられるのは、み言葉によって生活も人生も決定するからです。

 

そういう長老は二重の尊敬を受けるにふさわしいのです。二倍の報酬と訳していい言葉です。今でいう牧師謝儀です。尊敬の念がないのなら、報酬も成り立ちません。何に対する二倍かはっきりしませんが、豊かすぎもせず、貧しすぎもしない、ふさわしいだけの謝儀が用意されることを願うのです。

 

申命記の言葉が引かれます。牛にくつこがかかると、十分な働きに制限がかかる。長老とは牛以上の存在ではないのでしょうか。さらに根拠として主イエスの言葉も引かれます。主もみ言葉の働き人が報酬を受けるのは当然だと認められました。

 

謝儀とは労働の対価に支払われる給与ではありません。あくまでも感謝の気持ちのあらわれです。何に対する感謝でしょうか。み言葉が語られることに対してと言っていいのでしょう。従って、私たちがここで問われるのはみ言葉に対してどれほどの重きを置いているかです。どれくらいみ言葉を聞きたいと願い、うえ渇いているのか。人生の中でみ言葉の占める比重がどれほどのものか。改めてはかる必要があります。

 

み言葉が語られ、聞かれる恵みを当たり前に受け止めてはいけません。み言葉の奉仕者として立つ者を祈って支えるのは教会に託された大切な奉仕だと覚えたいのです。これからもみ言葉によって教会が形作られていきますように。

先週の説教概要

bottom of page