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2025年6月29日 礼拝
説教概要
生かされているいのち
小泉智師
ガラテヤ人への手紙2章20節ー21節
今まで信じるという語を強調してきたパウロは、ここでは生きるという言葉を重ねます。しかも生きているのは自分ではないと不思議な告白をします。自分であって自分でない。なぜなら、キリストがわたしたちのうちに生きているからです。その結果、行いの原則に縛られていた古い自分は死んで、キリストとともに新しいいのちに私たちは生きています。
主は全人類代表で十字架に死なれました。全人類に自分も含まれる以上、わたしも死んだ理屈になります。それだけではありません。死の法則を打ち破って主が復活した時に、わたしも復活のいのちに預かったと言うべきなのです。今までの自分と同じではありません。この方の愛と真実におすがりして生きるのが信仰生活です。
むろん私たちが生きている現実社会では実績が求められます。行いで評価されます。しかし結果によって自分の人生を証明する生き方は何を招くのでしょうか。疲れをもたらしてしまうのです。自分で自分の人生を担っているからです。しかし、自分の人生を背負うのは自分ではなく主キリストなのです。この恵みのゆえに私たちは重圧や脅かしから解き放たれるのです。
この安心感をパウロは神の恵みと呼ぶのです。もしも再び、行いによる自分の正しさを証明する世界に戻っていくなら、それは神の恵みを無駄にしてしまうことになると警告するのも無理もありません。キリストの死を無意味なものにしていいはずがないのです。むしろ、わたしのうちにおられるキリストが自分をどこまでも自由にし、変えていくのかなら、いくらでも証しできるはずです。キリストに生かされているいのちですと告白しようではありませんか。
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