top of page

2025年6月22日 礼拝

説教概要

生きるために

小泉智師

​ガラテヤ人への手紙2章17節ー19節

パウロは私たちが求めているものがキリストにあって義とされることだと告げます。行いによる救いではなく、キリストを信じる恵みで救われるのです。単に罪赦されるだけではありません。キリストの十字架と復活の中へと引き込まれていくダイナミックな働きがキリストの義です。

 

割礼や食べ物のタブーにこだわる人は反論します。行いは救いに関係ないなら極論を言うと悪いことをしても一向に平気ということになるだろう。キリストは罪を犯してもいいフリーパスを提供しているのか?やはり、信仰だけではなく救いの条件には律法の善い行いが必要ではないのか。

 

教会はこの手の誘惑に絶えず晒されます。救いの条件になんらかの実績を加えたがります。多少は私たちの行いが救いに貢献すると思いたいのです。それは十字架の福音の力強さがわかっていないからです。十字架は罪を助長させるどころか、キリストのように生きることを可能にする力です。

 

従って、パウロは信仰と行いで救われる主張に断固として反対します。せっかく自由にされたのに、奴隷状態に閉じ込められることになるからです。規則や基準をいかに守るかという生き方に集中するなら、大胆な生き方は出てきません。そういうメンタリティとは決別したはずなのに気が付くと、喜んでそちらに傾いていく私たちがいます。

 

与えられた自由を守れとパウロは告げます。何かに縛られて生きるのではなく、神に生きることに希望があります。私たちの人間性には問題がありますが、自分では気づきません。問題のある自分ごと主にお捧げして、自分の問題が見えてきます。それだけではなく復活のいのちが溢れて私たちをどこまでも変えていくのです。

​前回の説教概要

©2023 by 岡山神召キリスト教会

bottom of page