2023年6月4日 礼拝
説教概要
神の恵みが追ってくる
内川寿造牧師
詩篇23章1~6編
詩篇23篇は、多くの人が愛読する有名な箇所である。一読すると、牧歌的な幸せな情景が浮かんで来る。しかし、この詩の背景はダビデの生涯の中でも、最も厳しい状況の時であった。サムエル記第二15章によれば、長男アブシャロムの謀反により王座を追われ、「ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭を覆い、裸足で登った。彼と 一緒にいた民も皆、頭を覆い、泣きながら登った。」息子に王位を奪われ、僅かの手勢と共に荒野に逃れたダビデは失意の中にいた。さすがのダビデももう終わりとだ陰口を叩く者もあり、辛い苦しい時であった。
しかし、そのような状況を知って、ダビデを訪ねてくれた三人の古い友人がいた。ショビ,マキル、バルジライである。彼らはダビデの窮状を察して「寝台,鉢,土器、小麦、大麦、小麦粉、炒り麦、そら豆、レンズ豆、炒り麦、蜂蜜、凝乳、羊、牛酪をダビデとその一行の食料として持って来た。彼らは、民が荒野で飢えて疲れ、渇いていると思ったからである。」(17:27~29)
その時の親切は身に沁み、大きな慰め、励ましを与えられた。ダビデは三人を神の使いと思ったことだろう。この時の感動を歌にしたのが詩篇23篇である。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵とが、私を追ってくるでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23:6)面白い表現である。私が慈しみや恵みを追いかけ、祈り、求めているのではない。反対で、神の慈しみと恵が、一生涯私を追いかけて来るのである。夢で悪い者、怖い者に追いかけられることはあるが、ここでは、良いもの、祝福が、次々と途切れることなく注がれ、しかもいの ちの日の限り、生きている間ずっと続くのである。何故なのか。
① 神が主役、中心である。「主は~~をして下さった」主は羊飼い、私は乏しくない。主は緑の牧場、水のほとりに導かれる、主は生き返らせ、義の道に導かれる。主は私と共におられ、死の影の谷を越えて行ける。主は勝利を与え、私は良きもので溢れている。私が何かをしたのではく、神が何をして下さったが大切である。先行する神の御業を数えよう。自分の都合や、状態、感情ではなく、神を第一にする姿勢、態度。これが祝福の基と言えよう。
② 神への信頼。羊と羊飼いの関係はゆるがない信頼に基づいている。主イエスは「良き羊飼い」(ヨハネ10章)である。
③ 私の決心。主の家に住み続ける。主の臨在を意識し、神に心を向けて、祈ることである。 ヤコブが兄の怒りを逃れて荒野に野宿した時、後悔、孤独、不安でいっぱいだった。夢の中で神が現れる。「主がこの所におられ
るのに 私は知らなかった。ここは神の家、天の門だ」ベテル経験を味わう。