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2025年6月1日 礼拝
説教概要
悲しむ者は幸い
小泉美早子師
マタイによる福音書5章4節
悲しむ者がなぜ幸いなのか、幸いでないから悲しんでいるのに、幸いなどとどうして言えるのかと問いかけがあります。そこから様々な読み方が生まれました。
「自分の罪を心から悲しみ、悔いている人は幸い」と語られたのではないか。こう理解するなら、悔い改める者の幸いを語っていることになります。自分の罪を悲しむことから、他人の罪を悲しむ姿勢が生まれます。個人だけでなく、国と国の間の罪が戦争を引き起こし、それに苦しめられ悲しんでいる人々への共感を持つことも大事です。悲しみは人と心を通わせるための手掛かりになるのです。そういう意味では悲しむ者は幸いと言えます。
しかし悲しみを知っている者が他人の悲しみに共感出来るかといえば、自分が本当に悲しい時には他人の悲しみには目に入らない、心の余裕がない場合も多いでしょう。イエス様が見つめている悲しみは、私たちが日々現実に味わっている悲しみです。
どんな悲しみであろうと、「あなたは幸いだ」と宣言されます。それは「あなたたちは実は幸いなのだから喜びなさい」と喜びを強制しているのではありません。悲しみの原因が解消されることで慰められることでもありません。
「慰める」という言葉には「勧める」「傍らに呼ぶ」という意味があります。イエス様が私たちの傍らに来て下さり、慰めを与え、勧めやアドバイスを与えて下さいます。だからこそ、悲しみに押しつぶされてしまうことなく、それを背負って立ち上がって新しい一歩を踏み出していく勇気と力が与えられていきます。あなたの悲しみは私の慰めのなかにあると、イエス様は仰います。この慰めを知り、この慰めの中で生きていきましょう。
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