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2025年5月25日 礼拝
説教概要
信仰による救い
小泉智師
ガラテヤ人への手紙2章15節ー16節
パウロは私たちは異邦人のような罪人ではないと言います。ガラテヤ教会の殆どは異邦人ですから自分はあなたがたのような罪人ではないと宣言するようなものです。その真意は自分たちは神の戒めを知っているし、罪の何たるかがわかって生きてきたということです。
これはユダヤ人の優位を誇る言葉ではありません。パウロは言います。たとえ神の戒めを大切に生きたとしても、それで神に義と認められるわけではない。パウロは三度も人は律法の行いでは義とされないと強調します。善い行いに励めばその報いとして救いがある。この考えはわかりやすいですが、それが打ち消されます。そんなことで神に認められる者は誰もいません。
どうすれば神に認めて頂けるのでしょうか。キリストイエスを信じる信仰によってです。主イエスを信じることで、ただ恵みによって私たちは救われる。主が私たちのためにして下さった十字架の死と復活の出来事。ユダヤ人も異邦人もただ主イエスを信じるだけで義とされる恵みがここにあります。
従って救われるためには十字架だけでは不十分で割礼を受ける必要がある主張ほど主を軽んじる教えはありません。十字架と復活だけで十分です。罪の償いを主が背負って下さったのに、なぜ支払い続ける必要がありましょう。この恵みに満たされていくことで、今まで親しんできた習慣からも解き放たれて自由にされていくのです。
恵みによって救われるのなら、何もしなくていいのでしょうか。そうではありません。恵みの重さを知るほど、恵みに応えて生きていきたいと願うからです。この喜びが大きければ大きいほど、自分自身を主にお捧げしたくなるからです。
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