2022年4月10日礼拝会

説教概要

「十字架を仰いで」

​内川節子伝道師

ヨハネの福音書3章16節

 時は春。「棕櫚の聖日」を迎えて、いよいよ主イエスが十字架に向かって歩まれる時が来ました。出エジプト以来、罪の贖いのために献げ続けられた過ぎ越しの祭りの終焉です。何故なら、主イエスは歴史にただ一度、完全な、罪なき者としてご自身を献げられたからです。

1.十字架は神の愛のしるしです。
 目に見えない神の愛は、どのように人に知られるでしょうか。私たちは神の中に生き、動き、存在していますが、ほとんどそれを自覚していません。太陽も、月も、星も、空気も、水も、全て人の必要とするものは、神からの贈物です。春になれば花を楽しみ、木々の芽吹きを愛で、小鳥のさえずりに耳を喜ばせる。あまりに当たり前で、見過ごすか、自然を神のように崇めたりしかねません。
 しかし、キリストの十字架は全く異なった次元で、神の愛を私たちに教えます。

2.十字架はいのちのパスポートです。
 神は罪に対して厳しいお方です。人間である私たちは「清濁合わせ飲む」などとうそぶいていますが、聖い神のみ前ではそれは通用しません。罪ある者は神の裁きに耐えられないのです。ですから全ての人は死を迎えます。
 では、どうすれば良いのでしょうか?難しいようですが、神は「十字架を信じる」ことで、私たちに永遠のいのちを約束下さっているのです。「御子を信じる者がひとりとして滅びることなく」と記されているように信じることが条件です。

3.何を選びますか?
 狭い門と広い門。細い道と広い道。人は誰でもどちらかの門から入り、どちらかの道を歩く。また、別のたとえもあります。岩の土台と砂の土台。どちらを人生の土台に選びますか。
 人生の終わりにどこにたどり着くか。それは私たち一人一人の選択にかかっています。先が見えない愚かな人生を選ぶか、主イエスが身を挺して与えてくださった道を、十字架を仰いで生きるか、受難週の第一日の今日、神の前に告白しましょう。「主の十字架を信じます。」と。