2022年3月27日礼拝会

説教概要

「この一事に励む」

​内川寿造牧師

ピリピ人への手紙3章12節

 「成人である者は、このような考え方をしましょう。」(ピリピ3:15)
 使徒パウロは、聖化の過程を人間の成長に例えている。コリント第一3章1節~3節では、「肉に属する人」と「御霊に属する人」が対比され、キリストにある幼子から成長することが期待されている。救いを体験してすぐに、一足飛びで天国に行けたのは、あの十字架上の犯罪人の一人で、「あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」(ルカ23:43)と約束された。大半のキリスト者は、地上における何年、何十年かの信仰生活を送るのである。

 その信仰生活には二つの意義がある。
 ①証人として、福音に生きる。喜びに溢れ、神と共に生きる姿が証しになる。行いの実を結ぶのである。
 ②幼子から成人に、肉に属する者から霊に属する者へと成長する。キリストの姿に似せられて行く。聖霊の九つの実、人格の実を結ぶのである。
 コリント第一3章12節以下には、建築物の例えで、信仰生活の意義が示されている。土台はイエス・キリスト。その上にある人は、金、銀、宝石で家を建て、別の人は、木、草、藁で建てる。再臨の日、火で試される。残れば報いを受けるが、燃えて仕舞えば損害を受ける。
 しかし、自分自身は火の中をくぐるようにして助かる。果たして私は火で試されても残るような信仰生活を送っているだろうか。

 ところでパウロは、「成人である者」を、完成した者、到達した者とは考えていない。むしろ、途上にある者、一心に走り続けている者、一事に励む者、と理解している。
 「キリスト者の完全」を説いたアウグスチヌスは、キリスト者の完全には「謙虚さ」が伴うと言う。謙虚さとは「自分は完全だなどとは言えないという自覚である。」自分は完全な者になったと思った瞬間から不完全になるのである。永遠の求道者、「追求し続けている者」こそ「成人」である。ただ捕えようとして追求する動機は、「キリスト・イエスが私を捕えてくださった。」(ピリピ3:12)からである。神の先手の働きにより、「世界の基の置かれる前から選ばれていた。」(エペソ1:4)

 神の選びと召しは変わらない。だから、今週も一歩でも二歩でも成長したい。金、銀、宝石で建て上げる信仰生活に励みたいものである。