2022年3月20日礼拝会

「聖なる光に照らされて見えるもの」

説教概要

​長谷川忠幸師

民数記3章1節~13節

 民数記において命じられる人口調査は、幕屋に伴う神の聖なる境界線を構成するためのものである。幕屋を中心に、外側に向かうにつれ、一つ、また一つと境界線が設けられていくのである。イスラエルは、それぞれの配置された場所に応じて、その境界線を守り、その境界線を乗り越えて幕屋に近づく者から幕屋を警護しなければならない。


 しかしながら、いったい誰が何のために幕屋に近づこうとするのだろうか。その答えは、サウル王の態度から推測することが出来る。彼は、ペリシテ人と戦う際、サムエルの訪問を待たずに、自分で全焼の供儀を捧げる儀式を行った。その理由は、「兵士がわたしから離れて散って行くのが目に見えているのに、あなたは約束の日に来てくださらない。しかも、…ペリシテ軍がギルガルのわたしに向かって攻め下ろうとしている。それなのに、わたしはまだ主に嘆願していないと思ったので、わたしはあえて焼き尽くす献げ物をささげました」(サム上13章11-12節)と言うものであった。


 自分の願いを実現させようとする者は決まって、神の定めた秩序を乗り越えて聖所に侵入し、神の力を手中に収めようとする。しかし、民数記の教える幕屋の周りに配置されるイスラエルが示す聖なる境界線を見るたびに、自分が神の前では罪の穢(けが)れの中にある貧しい者であることを覚えることが出来るのである。


 私たちには、主イエスと言う聖なる光が与えられている。この光に照らされて、いつも主の恵みの中に生かされている謙(へりくだ)った信仰に立つ者となろう。その謙った信仰こそが、主の聖なる光を放つ基本的な態度なのである。民数記は、この聖なるお方が命じる聖なる生き方とはどのような生き方であり、神を証しする畏れの態度とはどのようなものかについて教える書物である。民数記に学び、聖なる神の臨在を表す礼拝者としていただこう。