2023年2月12日礼拝会
説教概要
人を潤す者へ
内川寿造牧師
箴言 11章24~25節
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(コリント第二8章9節)
主イエス様が貧しくなられたとは、神の栄光の御座を捨て、人となり、十字架の死に至るまで神に従い通したことを指している。
主イエスの生涯は、明確な目標に向かっていた。その一点とは「十字架の死」であり、私たちの罪の身代わりとなり、赦しと生命を与えるためであった。キリストの謙卑(へりくだり)により、私たちは富む者とされた。
「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。」(箴言11章24節~25節)
普通、富む者とは財産や知恵や情報を所有し、健康や仕事、家族に恵まれている者を指す。貧しい者とは、何も持たない者を意味する。
しかし、聖書は反対の真理を逆説的に示す。富む者とは、所有ではなく、どれだけ分け与え、捧げたかで量られ、逆に貧しい者とは、自分に取り込んで他の人に与えない、分け合うことを知らない者である。
ルカ12章に金持ちの農夫が登場する。彼は豊作と言うチャンスを生かし、努力して将来に備えて言った。「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」
しかし、神は言われた。「愚か者。おまえのたましいは今夜取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったい誰の物になるのか。」
何故、愚か者と言われたか。死後に備えず現世のことだけ考えたからか。それもあるが、真意は、「自分のために蓄えても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(ルカ12章21節)
エルサレムが大飢饉で困窮していることを聞いたマケドニヤ方地方の諸教会は、極度の貧しさにも関わらず、喜んで援助の手を差し出した。惜しまず、分け与える豊かさを体験しよう。与えるべきものを持っている。感謝