2024年2月11日 礼拝
説教概要
救いの時が始まる
小泉 智牧師
テモテへの手紙第一4章1~5節
生ける神の教会について語って来たパウロは、教会の霊である御霊が告げることに耳を傾けさせようとするのです。聖霊とは真理の霊とも呼ばれているように、私たちを正しい方向に導く霊なのです。その聖霊は今を後の時代だと告げるのです。何かの現象が後の時代を決定するのではありません。主イエスの十字架と復活が起こり、福音が明らかにされて以来、後の時代は始まったのだと理解していいのです。後の時代とは救いが始まる時なのです。
正しい方向に導くのですから、聖霊は間違った方向に逸れることから守る働きもするわけです。その間違った方向に心奪わせるのが惑わす霊と悪霊の教えだと言われています。とは言っても怪しげでおどろおどろしい教えとは限りません。一見、魅力的なのです。人を魅了するのです。正しいことを主張して、善なる実践しているようにさえ映ります。だからうそつきどもの偽善と言われているのです。
なるほど彼らは一見、敬虔なのです。信仰熱心そうにも思えるでしょう。結婚を禁じ、食物を断つとあるように何か立派なことをしているように見えます。しかしその実態は自分の努力で救われようとする実績主義に過ぎません。それこそ悪魔の罠であって、悪魔は救われていることをお前の実力をもって証明して見せるように迫るのです。しかしそのようなわざでは決して救いには至りません。実績主義に満ちた現代こそ警戒しないといけません。
考えてみると結婚と言う制度も、食物も、すべて神が与えて下さる恵みです。なんら拒むべきものではありません。むしろ感謝して受け取るべきものなのです。結局、神の恵みを拒み、否定しようとする者は、最も重要な神の恵みである主イエスの十字架さえも打ち消し、罪のゆるしと救いでさえも、否定することになるでしょう。神の言葉と祈りが軽んじられるなら、救いの恵みがわからなくなるのも当然ではありませんか。
パウロはこのような状態にある者を良心が麻痺していると呼ぶのです。あたかも家畜が焼き印が押されてしまっているような姿です。良心が麻痺すると、自分が何か特別に霊的でひとかどの者であるかのように誤解することでしょう。そこには肉の思いから来る高慢があるのみです。高慢さのあるところでは、人を軽蔑しようが、争いを起こそうがなんとも思わなくなってしまうのです。
聖霊の働きは全く逆なのです。聖霊はかえって良心が呼び覚ましていくのです。自分の罪がわかり、ゆるしの尊さがわかるように目が開かれます。争いではなく和解を求めるようになるでしょう。自分が特別な者であるかのような思い上がりは消えていくはずでしょう。むしろ、誰もが神のゆるしの福音を受け取って欲しいと願い、そのために自らを主にお捧げするように変えられて、奉仕を担いゆくことでしょう。