2025年3月2日 礼拝
説教概要
意外な所に主はおられる
小泉美早子師
マタイによる福音書3章13節ー17節
イエス様は案外、意外なところにおられ、近づいて来られるお方なのです。なにせ、洗礼を受けたいと列をなす大勢の群衆の中に紛れておられたのですから。洗礼を施す当のヨハネも戸惑います。あなたに洗礼を授ける資格など罪深いわたしにはありませんと言わんばかりです。
奉仕の原点。それは主のために奉仕できる資格などわたしには何もないと思う罪深さの自覚なのかもしれません。しかし、主は待ったなしで意外なところから近づいて来られます。主がわたしよりも下に立たれ、僕に徹して支えて下さる感動に包まれ、我が身を捧げるのが信仰です。
救い主が洗礼を受けることもイエス様に言わせれば正しいことでした。それはろくでもない人間の側に立ち、仲間になるのだとの決心の表れでした。天から下り、上から目線で人を叱りつけるのではない。人生の泥沼にいる人々のど真ん中に身を投げ出し、自分もこの仲間に数えられても構わないという心意気。実はこれが主の意志を受け継ぐ教会の姿でもあり、クリスチャンの心意気でもあるのです。
主が洗礼を受けると天が開かれ、御霊が下ったことは旧約聖書以来、預言者の召しに特有な体験談です。神の霊に満ち、神の言葉を語ること。大工の仕事で働き、汗水流し苦労したイエス様から、絞り出される言葉が実は人を生かす神の言葉なのです。
私たちも聖書の言葉に支えられて生きています。この言葉を人生の土台にしています。神の霊を受けています。大げさに言うと自分と神の言葉がひとつになって、仕事に、家庭に、学校に、地域に送られていくようなものでしょう。それは生活の真っ只中の意外なところから、わたしの周りの人に向けて神の言葉が響いてくるためです。教会の壁を越えて、生活感漂うこんな所からも。