2023年3月5日礼拝会
説教概要
父よ、時が来ました
内川節子伝道師
ヨハネの福音書 17章
ヨハネ17章は、イエスの最後、十字架前のとりなしの祈りです。1,イエス自身のための祈り。(1~5節)2,残していく弟子たちのための祈り。(6~19節)3,弟子の宣教によって生まれる教会のための祈り。(20~26節)
主イエスのご生涯は、イザヤ書の中にも記されているように「苦難のしもべ」とも言えるものです。生まれた時も、その人生のすべてが十字架に直結しています。「悲しみの人で、病を知っていた。」と言われているとおりです。
旧約時代、「すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることはできません。」(へブル10章11節)と記されているように、むなしい祈りがささげ続けられていました。しかし、主は「あなた(神)のみこころを行なうために」と祈られ、「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」(へブル10章10節)と記されているとおりです。
私たちは、弟子たちの宣教の実です。新しいイスラエルであり、神の教会です。
主は祈られました。①御名の中に保たれるように。②彼らが一つとなるため。③世の中で悪い者から守られるように。④真理によって聖め別ってください。(17:11~19)この弟子たちへの祈りは、私たちへの祈りと共通しています。彼らがみな一つとなるためです。(17:21)「あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」(17:23)
主は受難の前にとりなしの祈りをされました。その心中は、私たちが一つになって神の栄光を現わす。この一事です。
一つになる。気の合った者同士であればやさしい。しかし、意見の合わない者が一つになることは、自分が十字架を負わねばならない。この生きづらい世から逃れるのではなく、むしろこの世の中で生きなければならない。それが、十字架を負うということなのです。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9章23節)