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2025年2月23日 礼拝
説教概要
わたしは何者なのか
小泉智師
ガラテヤ書1章10節ー12節
キリストのしもべとしての意識がパウロを支えています。故に人に取り入ることを優先しません。嫌われようと批判されようと、ひたすら神が喜ぶことに努める。これこそが信仰者のあるべき姿です。
人目を意識して褒められることを求めてこびへつらうようになると、神に喜ばれることが脇に追いやられます。パウロもかつての自分は人に喜んで貰うことだけにあくせくしていたことを告白します。信仰を頂いたときにそういう価値観からは離れたのです。
なぜこういう確信に立てるのでしょうか。パウロが告げ知らせている福音が人から受けたものでも、人に教えられたものでもないからです。福音を受けたのはイエスキリストの啓示によりました。覆われていたものを神が取り除かれたのです。そこに人の力が介在する余地はありません。
信仰はキリストとの出会いによってしか与えられません。パウロと同様、復活のキリストとの個人的な出会いなしに私たちは誰も救いの恵みには預かれません。
ここで「わたし」という言葉を繰り返されるのはただの自己主張ではありません。自分が何者かをはっきりさせるのです。キリストの恵みによって救われたわたし。キリストの召しによって使徒とされたわたし。福音によって生かされているわたし。キリストなしにわたしはあり得ないとする告白です。
私たちにとっても全く同じ告白です。もしもキリストが欠けたなら、人生はどうなっていたでしょうか。主の恵みによって救われていないなら、どこで何をしているでしょうか。そう思えば思うほど主によって救われているわたしを証したいのです。キリストに救いがあることを告げ知らせたいのです。
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