2022年2月20日礼拝会

説教概要

「聖なる神の御手にある救い」

​長谷川忠幸師

民数記1章49節~50節

 聖書の教えに基づいていない「愛と平等」という言葉は、神を見えなくしてしまう。神は、確かに、「救われる者」と「救われない者」という垣根を設けることはない。人を愛し、平等に接するお方である。
 しかし、聖書に学ぶ姿勢を失った「愛と平等」の原則に立つ者は、「神は愛のお方だから、私を助けなければならない」「私が困窮していると言うことは、神は私を愛していないのではないだろうか」と考える。一歩引いて見ると、神は自分のために何でもしなければいけない奴隷のような存在となっていることに気付く。自分を中心に考える「愛と平等」は、決まって自分以外の存在を自分の幸せに従事する僕のように扱うのである。
 聖書が教える神は「聖なる神」である。「聖」とは一切の不浄を受け付けない。故に、不浄の中に生きる私たちは、神を見ることさえできないのである。神を前にするときに、聖なる光に浄化されないように地にひれ伏して顔を覆い、畏れの態度を取らなければならない。逆を言えば、不浄なままで見て、近づき、触れることのできる存在は神ではないのである。したがって、私たちは神の前に常に畏れをもって礼拝を捧げる必要がある。逆に、畏れのない態度は、「この礼拝には聖なるお方はいませんよ」と宣言しているのと同じなのである。
 民数記は、この聖なるお方が命じる聖なる生き方とはどのような生き方であり、神を証しする畏れの態度とはどのようなものかについて教える書物である。民数記に学び、聖なる神の臨在を表す礼拝者としていただこう。