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2025年12月28日 礼拝
説教概要
主が送り出される将来へ
小泉智師
ルカによる福音書24章44ー52節
年末になると、あちこちで一年の成果や達成への反省が語られます。しかし年間標語に選んだみ言葉で語られる弟子たちは、実は何も成し遂げてはいません。宣教の開始以前。行動以前の状態に置かれています。それでも復活の主は彼らに現れ、聖書を解き明かし、心の目を開いてくださいます。弟子たちは何かを成したから理解したのではありません。ただ一方的に主が臨まれたからみ言葉を悟ったのです。
もちろん、主は、罪の赦しを得させる悔い改めが宣べ伝えられると語られました。ところが弟子たちが即座に行動したとはどこにも記されていません。むしろ彼らに求められているのは「証人」であることです。証人とは、何かを成し遂げる人というより、主が起こしておられる出来事の前に立つ人です。それなら主がなしておられることを見つめ、受けとめることが第一歩ではないでしょうか。
高いところからの力。その力は何で何に使われるかさえ明らかではありません。求められているのは、ただとどまることでした。何もなしていない弟子たちを、主は地上での最後のつとめとして繰り返し祝福されます。祝福は何かなし得た者に与えられたわけでさえなかったのです。
弟子たちがしたことは、神を賛美したことでした。もちろん主のために行動できることは尊い。しかし、いつかやがて私たちは動けなくなる時を迎えます。そのとき私たちの価値は失われるのでしょうか。決してそうではありません。何もできなくなっても私たちは宣教の外には置かれないのです。宣教の聖霊は、私たちより先に、私たちの行けないところへ、できないところへ進みたもう。主が送り出される将来。聖霊は私たちより先に待っておられます。
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