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2024年11月10日 礼拝
説教概要
死の眠りから起こされる時
小泉智師
テサロニケ人への手紙第一4章13節ー18節
知らないままでいてほしくないとパウロは言います。知らないと悲しみに沈むからです。悲しみを乗り越える希望を語るのです。眠った人々がテサロニケ教会にいる。死が見つめられています。私たちは死を体験したことがありません。死について何も知らないのです。
死を語る資格は、死の世界から戻って来た者にあるはずです。主イエスの死と復活を告白するのはそのためです。しかも主は十字架刑と言うもっともおそろしく悲惨な死を死に切られました。全人類の罪が主を死へと追いやりました。全人類代表として罪を引き受け、息を引き取られたのです。
それなら復活も主イエスだけのものと言ってはいけません。主とともに死んだ者は、やがて終わりの時に主とともに復活します。もっとも終わりの時がいつ来るか誰にもわかりません。その時まで生きているか、死んで眠りについているかはどっちでもいいことでしょう。両者ともがその時を待ち望んでいることだけは確かだからです。
その時は、主の主権でお決めになられます。号令もみ使いのかしらの声も神のラッパの響きも、人間が計算も左右もできません。その時主と出会う場所も、栄光の雲の中であり、空中なのです。即ち、人間の力の及ばないところ。ローマ皇帝の権威や価値観さえ否定される場です。
もしも、終わりの日に起こることが、この地上の延長なら、なんの希望になりましょう。地上と同じ憎しみや争いや、もめごとが続くだけなら無意味です。そうではない。一新されるのです。眠れる者を主が死から起こされる。この希望を知る者は、たとえこの地上で一時の別れを体験し悲しむ人とも互いに慰めの言葉を語り合うのです。
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