top of page

2023年11月26日 礼拝

説教概要

教会を建て上げるために

小泉 智牧師

テモテの手紙第一 3章6~7節

教会の監督の務めの条件を説く場に悪魔という言葉が二度も出てきます。しかも悪魔の罠とあります。罠ですから、一見良いものに映るのでしょう。人によってはそれが悪いものだという見極めがつかないのです。

 

信仰をもって間がない人には、信仰的にいいものと悪いものの識別が難しいのです。主のためによかれと善意ですることが間違ってしまう。偽教師に惑わされて、その教えこそが良いものだと主張する可能性さえあります。高慢という言葉は眩惑という言葉です。自分で自分が見えなくなってしまう状態です。節度を越えて己惚れてしまうのです。

 

様々な教えの風に惑わされ、新しい流行に踊らされ、その結果教会が混乱してしまうのです。それでは健全な教会形成は難しい。従って吟味の力の弱い初心者にとっては監督の働きは荷が重すぎるのです。パウロは配慮から誰でも彼でも監督にふさわしいわけではないと戒めるのです。人手が足りないからと安易に監督の基準を下げてはなりません。

 

更に言うなら、偽教師の教えになびいていくなら、教会全体が社会から悪評を受けます。良い評判を得られず宣教の妨げになるのです。ところが自分は神のために良いことをしている確信が強いほど、悪評も、自分を理解しない社会が悪いのだと開き直ることでしょう。自ら改めようせず、尚、そこに留まり続ける。それこそ悪魔の罠でなくてなんでしょうか。

 

他人事では済みません。今でも起こってもおかしくはない現象です。掘り下げると足りないのは聖書理解なのです。私たちはむしろみ言葉によって建て上げられ、成熟していく教会を目指していきたいのです。

前の説教概要

bottom of page