2024年11月24日 礼拝
説教概要
望みを与える神の恵み
小泉智師
テモテの手紙第一6章17節ー21節
主の再臨に思いを向けるパウロは、教会の中の富める方々が信仰に立てるように手引きします。富を誇って高ぶってはいけないのです。いつの間にか富さえあれば神なしでも独り立ちできるかのような錯覚が忍び込むからです。富さえあれば人が自分を尊敬するかのように誤解します。しかし、富はいつ消えるかわからないほど不安定です。望みをおくべきは富ではなく、神なのです。
なぜなら神はすべてを豊かに与えて下さるお方だからです。豊かとは自由にとも訳せる言葉です。神が用意して下さるものは自由でただなのです。富んだ者もそうでない者も分け隔てなく享受できます。どれほど豊かなものを神から与えられているかを思い起こすなら、人生そのものが神への感謝に溢れ、日々の平凡な歩みの中にも私たちを楽しませる神を見出し、つぶやきは鳴りを潜めるに違いないのです。
もっとも富そのものが害悪だというのも極論です。もしも富が与えられているなら、それは人の益や、善い行いや、惜しみない施しのために用い、喜んで分かち合うことが求められているのです。自己満足のために使うよりも与える生き方に立つのです。なぜなら神ほど惜しみなく与える愛のお方はおられないからです。信仰者とは神に似た者へと変えられていく存在なのです。
なぜ、そういう生き方が可能かというと、未来に備えているからです。来るべき神の国を待ち望んでいるからです。自分が主のためにしたことが神の国の全体の中で実を結ぶのです。自分自身の基礎を築くというと、自分のことしか考えていないように聞こえるでしょうが、違います。与える恵みに生きることで自分自身の信仰の基礎が建て上げられ、ひいては共同体全体の益となり、よき影響を及ぼすからです。
そのためには自分が何を信じ、どこに立っているかを常に確かめる必要があるでしょう。どこから来たのか確かだからこそ将来どこにたどり着けるかも確信できるのですから。ゆだねられたものとは使徒から伝わった信仰の中身です。そこから逸れてはいけないのです。保線工事のように信仰の内容を保ち続け、まっすぐ走れるように注意をするのです。
それはある種の困難を伴うことかもしれません。種々の間違った教えに教会が染まらないように、どうすればいいのでしょうか。自分にそんな力も洞察もありませんと言いたくなりますが、大丈夫です。教会を支えているのは個人の力でもなければ、教会員の経験でもありません。神の恵みがともにあることが根拠です。神の恵みがともにある限り、教会は立ち続け、使命を果たし続けるに違いないのですから。