2022年10月30日礼拝会

説教概要

不条理を超えて

内川節子伝道師

ヨハネの福音書 9章1節~12節

 「彼が盲目に生まれついたのはだれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」道端で物乞いをしている盲人を見て、弟子たちは素直な疑問を主に投げかけた。


 私たちは、神は公平、公正、差別なく人間を愛しておられると信じ、願っている。
 しかし、現実の社会はそう簡単に成り立っていない。確かに、太陽も雨も空気も水も誰彼を問わず、全ての人に平等に与えられている。
 が、ここに生まれつき光を失った世界に生きて、みじめな生活をしている人がいる。社会主義国家であっても、資本主義国家であっても、人間がつくり出す社会にはひずみがあることを露呈している。例えば、最近よく言われる「格差社会」。昔は家柄によって代々格差が当然であった。

 が、現代は少しニュアンスが変わって来ている。親の財力の違いが、子どもの人生を決定してしまう。簡単に言えば、金持ちの子は環境も良く、良い教育を受け、良い未来が約束される。貧乏人の子は、教育を受けるチャンスも与えられず、みすみす底辺を生きるしかない、と言う状況である。


 3節、イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」主は盲人の目に泥を塗り、シロアムの池で洗わせた。すると彼は見えるようになり、全く新しい人生を歩み始めたのだ。
 マタイ5:1~12の山上の垂訓を見てみよう。人間の幸福とは何かが教えられている。
 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」に始まる七福とも八福とも言われるこの箇所は、言葉の中央に「主イエスによって」を入れて読むとよく分かる。山上の教えには、私たちに出来ることが記されている。
 例えば、
 7節「憐れみ深い者は幸いです。」
 8節「心のきよい者は幸いです。」
 9節「平和をつくる者は幸いです。」
 これらの言葉は良く読むと、どれも積極的、肯定的な行動を表している。主は、私たちにそのように生きてほしいと思われているのだ。


 ヨハネ9:4の「だれも働くことのできない夜」とは、主の再臨によって全てに終止符が打たれる時である。
 残された時の長短はあるが、今、主のわざをなし、「神のわざがこの人に現われるため」と語られて盲人の目を開かれた主イエスに倣い、主のわざを体現する者になろう。それが不条理を超えて神のわざを現わす信仰である。