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2023年1月15日礼拝会
説教概要
義人はいない 一人もいない
長谷川忠幸師
民数記 9章1節~14節
レビ記は、宗教的な穢(けが)れを負った場合、清めの儀式を行うように命じている。重い皮膚病を患った者は、その病が癒されるまで宿営の外に出るように命じる。
これらの規定を実行すると、穢れを負った者は劣った者で、穢れを遠ざけ、自身の清さを保つ者が優れた者であるという解釈を誘発する。
この解釈が行き過ぎると、穢れた者はイスラエルの民としてふさわしくないとし、そのコミュニティから排除することが、神への忠実と献身であるという過激な思想を生み出すのである。
実際に、エズラやネヘミヤたちは異邦人と結婚した者たちを「穢れた者」とし、イスラエルの民として数えることを拒絶し、その者たちをコミュニティから排除したのである。
レビ記は、本当にそのような差別的な行為を「聖なる生活」と教えているのだろうか。民数記は、エズラ、ネヘミヤたちの解釈は誤った解釈であり、レビ記の教えを正しく実践するように教えるのである。
イスラエルは、聖なる民だったから数えられたのではない。彼らは穢れの中にあり、宿営の外に出されるような者であったが、神の恵みの中で清められ、憐れみの中で神の民として数えられたのである。
それはユダ族だけでなく、12部族すべてが神の民として数えられたのである。つまり、穢れた者を神の民として数えるべく、清め、招き入れることをもって聖なる生活は実現するのである。
主イエスは、まさに罪人を神の御もとに招き入れるお方であった。私たちは、この主イエスの憐れみをもって初めて神の民として数えられた者なのである。
真の聖なる生活をするべく、主イエスにつき従う新しい信仰を今日も祈り求めよう。
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