2023年2月5日礼拝会
説教概要
主の謙遜を体現するモーセ
長谷川忠幸師(境港キリスト教会牧師)
申命記 5章23節~33節
申命記5章を見ると、律法を賜る主なる神を異常に恐れるイスラエルの姿が描かれている。神との契約の証しである十戒の言葉を賜ったと言うのに、イスラエルは何故、神を恐れ、近づこうとしないのだろうか。
それは、律法の言葉がすべての穢(けが)れを刺し貫く聖なる剣のように、圧倒的な迫りをもってイスラエルに臨んだからである。
激しい雷鳴を聞くとき、人は言いようのない恐怖を感じるだろう。律法の言葉は、そのように不遜な思いで近づくなら焼き尽くされてしまうような聖なる響きを放って彼らに迫るのである。
裏を返せば、イスラエルは圧倒的な聖なる律法を賜るにはふさわしくない存在であると言うことができる。
人は、神に従いたいという思いとは裏腹に、いつも自分の欲望を神々のごとく崇め、それに追従する性質を持つ。自分を救い、自分を満足させるために律法の言葉を守る。
そのことは、主イエスが厳しく指摘しているとおりである。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ」(マタイ23章25節)。
しかし、神は彼らの内に神を畏れ、平安の内に主の御言葉を守り行う心を与えるべく、律法の言葉を賜る。即ち、神が律法を示すということは神の謙遜を意味する行為なのである。
そして、イスラエルの民が、律法の言葉をもって焼き尽くされてしまわぬように、彼らに伴い続け、律法を教えることに献身するモーセを召すのである。
主イエスは、律法の炎の前に完全に献身し、罪人を贖う贖いの死に至るまで御言葉に献身された。ここに神の完全な謙遜がある。このことをいつも覚えるときにのみ、私たちもまた謙遜に御言葉に聞き従うことができるのである。
今日も主の謙りを覚え、御言葉に献身する心を賜るべく、新しい信仰を祈り求めよう。